目次 > 作曲家Pick up"シューマン"

R. シューマン


生い立ち

ローベルト・シューマン(1810〜1856):
 1810年6月8日、ドイツのツヴィッカウに生まれる。幼い頃に音楽を学ぶが、本格的にレッスンを始めたのが遅く、無理な練習で指を痛めてピアニストを断念。 その後は作曲に専念し、ピアノ曲や歌曲などロマン派的な音楽を多く残したほか、音楽評論家として雑誌「音楽新報」を創刊し、ブラームスやベルリオーズを世に紹介した。 私生活では、当時、人気女流ピアニストだったクララ・ヴィークと結婚。8人の子供をもうける。だが、精神を病み、自殺未遂の末に自ら精神病院に入り、2年後の他界した。

〜代表的な作品〜
幻想小曲集 作品12(1837〜1838年)
子供の情景より《トロイメライ》(1838年)
クライスレリアーナ(1838年)
歌曲集《詩人の恋》(1840年)
チェロ協奏曲イ短調(1850年)

ロマン派の天才が恐れたモノとは…

 人間、誰にでも怖いモノはある。ひと昔前までは「地震・カミナリ・火事・オヤジ」がその代表だったが、最近のオヤジはあまり怖がられないらしい。 それがナメられているせいなのが、シューマンのように「穏やか」なオジサンが増えたおかげなのかはわからないが……。

 というわけで、温和で無口な口ーべルト・シューマンは、人から怖がられるなんてこととは無縁のオジサンだった。 しかし、彼自身には恐れていたモノがいっぱいあったという。もちろん、火事やオヤジを怖がっていたわけではない。 ひとつは高い場所である。シューマンは高所恐怖症で,2階以上の建物に住んだことがなかった。また、とがったモノを恐れる 尖端恐怖症でもあった。でも、何より彼を怯えさせたのは、狂気と死に対する恐怖だったのである。

 最初の不幸はシューマンが16歳の時にやって来た。姉が自殺し、父も急死してしまったのだ。それに続いて起こったのが、 ピアニストになる夢を断たれた不幸な出来事だ。18歳になってやっと本格的にピアノのレッスンを始めたシューマンは、 遅れを取り戻そうとして自作の指訓練機なるものを使い、躍起になって練習した。ところが、それが崇って右手の人さし指が動かなくなってしまったのである。 さらに兄や母との死別も重なって、性格は徐々に内向的になり、精神的にも不安定になっていったのだ。

 しかし「捨てる神あれば拾う神あり」である。シューマンを不幸の底から拾い上げてくれた女神は、のちに最愛の妻となるクララだった。


心を病んだシューマンと妻クララの夫婦愛

 クララは、シューマンのピアノの師匠だったフリードリヒ・ヴィークの娘で、天才的な女流ピアニストだった。2人は長年の交際のすえ、 ついに結婚を決意,ところが、クララの父親は自慢の娘を売れない作曲家などにくれてやるものかと猛反対したのである。 ついには裁判沙汰にまで発展した結果、裁判に勝ったシューマンが1840年にめでたくクララと結婚,この年、シューマンの創作意欲は 2人の愛のごとく燃え上がり、1年で127曲もの歌曲を作曲したという。

 ただ、2人の間に問題がなかったわけではない。今でこそ、シューマンも大作曲家だが、当時はシューマンのほうが"クララの夫"と呼ばれていた。 ほとんど無名の作曲家で、音楽評論の仕事で食べていくのがやっとだったシューマンよりも、売れっ子ビアニストだったクララのほうが収入も知名度も高かったのだ。 8人の子供(長男は6ヵ月で死亡)と夫のために働き続ける妻。その稼ぎに頼っている自分……。実際、シューマンの心中は複雑だったに違いない。 そんな理性と精神不安の板挟みに舌しみ、いつしか彼の心は疲れきってしまった。

 もともと躁鬱が激しかったシューマンは、晩年になるにつれ、ひどし抑鬱状態に陥った。彼の周りには天使や妖精が飛び交い、耳元では悪魔の声が響いた。 そんな幻覚や幻聴が日に日に悪化していったのである。そしてついに1854年2月27日、シューマンが最後の理性をふりしぼって自ら精神病院の入院を希望したその翌日、 最悪の事態が起こった。強い雨の中、スリッパ姿で家を飛び出した彼は、結婚指輪を投げ捨て、極寒のライン河に身を踊らせたのである。幸い命は助かったものの、 精神病院に運ばれた彼は、もうあの理知的な天才作曲家ではなかった。とりとめのない言葉を発する別人になっていた。

 自殺未遂前夜からすでに、シューマンはクララの看病を拒絶していた。入院中も面会を許さず、手紙だけが2人をつないでいた。でも、愛が冷めたわけではなかった。 たぶん、シューマンは見られたくなかったのだ。正気を失った自分の姿を。愛するクララにだけは……。死期が迫リ、2年半ぶりに彼女と対面したとき、もう言葉はうまく話せなかった。 ただ、衰弱しきった体でクララの肩に手をまわし、優しく見つめるのが精―杯だった,そして2日後の1856年7月29日、誰もいない病室で、46歳のシューマンは眠るように息を引きとったという。


今月の教訓

愛の力、あなどるべからず。

天才は愛を糧に能力を発揮する。

シューマンの死後、妻クララは常に喪服のようなドレスを身にまとい、行く先々の演奏会でシューマンの曲を弾いてまわった。 それが彼の曲を広め、後世に残るものにしたのである。

Written by... :コンサートマスター
前のページへ<=
=>次のページへ

TOPへ作者へメール