フレデリック・フランチシェク・ショパン(1810〜1849)
…1830年3月1日(2月22日の説も)、ポーランドのワルシャワで生まれる。幼い頃からピアノに親しみ、8歳で演奏会デビュー。
ワルシャワ音楽院を卒業後、ウィーンを経由してパリへ渡り、貴族相手のピアノ教師として生活費を稼ぐ。
女流作家ジョルジュ・サンドと恋仲になり、結核に冒された体の療養をかねてマジョルカ島やノアンで同棲しながら作曲に励み、
多くのピアノ曲を生み出した。しかし病状が悪化し、やがてサンドとの関係も破錠。その2年後の1849年10月17日、39歳で他界した。
身長約170センチ、体重45キロ。鼻筋のとおった細面の顔に、青みがかった瞳とブロンドの髪。 シャレた服を着こなし、刺しゅう入りのシルクのハンカチを携帯し、手には白い手袋。 小さな細い指で華麗にピアノを弾き、数々の名曲を残したピアノの詩人……。 なるほど、ショパンはイメージどおりの儚げな色男である。
でも、実際のショパンは我々が思っているほど軟弱じゃなかったらしい。 ピアノの他にも多くの隠し芸を持っていて、意外にもものまねや漫画が得意だったのだ。 会話も機知に富んでいて、周囲の人を楽しませるのがうまかった。ポーランド出身の若き青年が、 パリのサロンで上流貴族と交流できたのも、こうした特技とピアノの腕前があったからに違いない。 おかけでショパンは大勢の貴族からピアノのレッスンを申し込まれ、その収入で一般庶民よりもはるかに贅沢な生活ができた。 しかも金遣いもけっこう派手で、稼いだお金は洋服代やら食事代やらにつぎ込んでいたという。
しかし、ショパンの優美で幻想的な音楽が、じつは楽譜の上で何度も書いたり消したりしながら作られたのと同じように、 "明るいショパン"もまた、心の中には複雑な感情を押し込めていた。「人前では陽気で魅力的だったけど、 親しい人の前では違った」と言ったのは恋人のジョルジュ・サンドである。たとえば、音楽に関してナイーブだったショパンは、 大勢の前でピアノを弾くのが嫌で、フランツ・リストに匹敵する達人でありながら、生涯に開いた演奏会はわずか30回程度。 有名人になりたいなどという野心のカケラもなく、音楽家たちとの付き合いもほどほど。大人っぽくて冷静かと思えば、 無邪気な子供のような部分もあった彼は、人には気を遣うくせに、 いざ自分のことになると消極的になってしまうクセがあったのだ。
少々マザコン気味で、姉と2人の妹(末妹は14歳で他界)に囲まれて育ったショパンは、 どこか女っぽくて、恋にはオクテだった。男友達のティトゥスには「ボクに君の唇をください」 なんて大胆な手紙を書いたりするくせに、初恋の人コンスタンチアには告白さえできなかったのである。 後に彼女はショパンの伝記を読んでその想いを初めて知り、驚いたという。
そんなショパンが勇気を出してプロポーズをしたのは26歳のとき。 お相手は伯爵令嬢のマリア・ヴォジンスカだった。2人は相思相愛だったが、このころのショパンは体調が思わしくなく、 寝込むことがよくあった。なのにショパンは、ムコ候補の体を心配する伯爵家の忠告を無視して、サロンで夜遊び三昧。 そのため、ついに婚約を解消されてしまったのだ。再び恋に破れ、落ち込むショパン。
そこへ現れたのが、6歳年上の女流作家ジョルジュ・サンド(本名オーロール・デュパン)である。 自由奔放な彼女は、男物のズボンをはき、葉巻をふかし、夫と離婚して数々の男たちと浮名を流している女だった。 最初は「なんてヤツだ。あれでも女なのか?」と言っていたショパンだったが、なぜか次第に彼女に惹かれ、 やがて2人は生活をともにするようになる。その関係は恋人同士というより、むしろ親子のようだったらしい。 たくましい生活力をもつ母のようなサンドは、結核に苦しむショパンの面倒をよく見てくれた。 おかげで彼は、1日中ピアノに向かって作曲することができたのだ。
しかし、サンドには本当の子供、すなわち2人の連れ子もいた。しかもその息子はショパンをひどく嫌い、 娘のほうは嫉妬したくなるほどショパンと仲が良かった。それが原因で、ショパンとサンドは9年の同棲生活の末、 喧嘩別れしてしまったのである。その後のショパンは結核が悪化して衰弱し、 作曲らしい作曲もできないまま永遠の眠りについている。でも、ショパンは恋人を少しも恨んではいなかったようだ。 彼の手帳には、サンドの一房の髪と、彼女からの手紙が大切そうに挟んであったという。