目次 > 帝国の死亡証明書 > 一限目 「帝国の死亡証明書」〜ウェストファリア条約〜<一限目><ウェストファリア条約> これは、三十年戦争の終結を宣言するものであり、
同時に、神聖ローマ帝国の事実上の崩壊を意味するものでした。
つまり、この条約について語る前に、三十年戦争について語る必要があります。 西暦1555年、時の神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)は、
アウグスブルグの宗教和議によって、広がりつつあったドイツの宗教内乱に一応の決着を付けました。
しかしこの和議は、妥協の産物以外の何者でもなかったのです。 さらに、この和議においては、カルヴァン派の信仰は認められませんでした。この2つが、
後に三十年戦争の原因となったと言うことができます。 さて、時は進んで1617年、オーストリア領内のベーメン(現在のチェコ)において、事件が発生します。 この土地は、ドイツのオーストリア・ハプスブルク家の支配化にありましたが、民族はチェク人であり、
宗教改革以前からローマ教会に対して反抗的な地域でした。そして宗教改革以降、ベーメンの人々は新教を信じていました。 ところがこの年、ベーメンの支配者が代わり、新教に対する弾圧を開始しました。
これに対し、ベーメンの新教徒貴族が反乱を起こすに至り、やがてヨーロッパ諸国を巻き込む大戦乱に発達していったのです。 この反乱が始まった翌1619年、神聖ローマ皇帝マティアスが死亡します。ここで新たに帝位についたのが、マティアスの従弟でありベーメン王として新教徒を弾圧してきたフェルディナント2世でした。 ところが、このフェルディナント2世に対し、ベーメン議会は彼の廃位を宣言し、カルヴァン派の新教同盟の指導者であったファルツ選帝侯フリードリヒ5世をベーメン王に擁立します。 しかし、フリードリヒ5世がカルヴァン派(=非主流派)であったため、ルター派の支持を得ることができず、
1620年、旧教派諸侯の大部分に支持されたフェルディナント2世にヴァイセンベルクの戦いで敗れ、ベーメンの反乱は鎮圧されました。 この過程を見る限り、三十年戦争は紛れもなく宗教戦争であり、歴史的にも宗教戦争であると位置付けられています。
そしてもし、ここでこの戦争が終結していればあるいは、後に来る神聖ローマ帝国の崩壊というものが少しは先送りになったかもしれません。 しかし、歴史がその道を歩むことはありませんでした。この後、新教徒の救済という、
いわゆる大義名分(最近アメ公がよく使うあれですね)を手にした新教派諸国はこの後次々とこの戦争に関与していくことになるのです。 (゜д゜)y-┛~~~フゥ〜 「って、ウェストファリア条約について語るつもりが三十年戦争についてしか語ってないじゃん」 という批判を受けそうだけど、疲れたから続きはまた今度。 トップページへ<= =>次のページへ
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