目次 > 帝国の死亡証明書 > 五限目 「帝国の死亡証明書」〜ウェストファリア条約〜<五限目>さあ、最終回だ、元気出していくよん。 では、続きを。 さて、こうして結ばれることとなったウェストファリア条約とは、どのようなものだったのでしょうか。 これは、大きく四つに分けることが出来ます。
一つ目のカルヴァン派の公認によって、神聖ローマ帝国内の各諸侯は、これまで以上の信仰の自由を与えられることとなります。 二つ目の帝国内の領土の再分配では、フランスがアルザス地方の大部分とメッツ・トゥール・ヴェルダンの三司教領を獲得し、
スウェーデンがヨーロッパ大陸における初めての領土となる西ポンメルンを獲得したのをはじめ、
ザクセン・バイエルン・ブランデンブルク等のドイツ諸侯が、新たに領土を獲得することとなります。 しかし、三つ目のスイス・オランダの独立に関してからは、多少意味合いが異なってきます。 スイスは1499年、オランダは1581年に、それぞれ事実上の独立を達成しています。 そして四つ目の帝国諸侯の事実上の独立ですが、これもまた、少々複雑な事情を伴います。 1356年、時の神聖ローマ皇帝カール4世は、金印勅書により、
皇帝を七人の選帝侯の多数決によって選び出すという方式を確立します。 ところで、この「帝国の死亡証明書」というものが指し示す内容に、少しだけ異説を唱えてみましょう。 つまり、帝国というものに対する解釈を少し広げてみようと思うのです。ここに言う帝国とは、
神聖ローマ帝国という単一の国家ではなく、ハプスブルク家による世界帝国を現しているとしてみましょう。
1519年スペイン王であったカルロス1世がカール5世として神聖ローマ皇帝の冠を戴いたとき、
世界は紛れも無く、ハプスブルク家のものとなりました。ヨーロッパから新大陸、東南アジアに及ぶこの大帝国はしかし、
1556年のカール5世の死によって幕を閉じます。ハプスブルク家は、その大帝国の再建という夢をこの三十年戦争に託し、
そして、敗れたのです。 その後、ヨーロッパには絶対主義国家の並立による秩序のもと、近代を迎えることとなり、
ヨーロッパ全土を支配するハプスブルク的ヨーロッパ帝国が出現することは無かったのです。 すなわち、ウェストファリア条約は、このハプスブルク的ヨーロッパ帝国の死亡証明書であった、と言えるのではないでしょうか。
∧∧ ミ _ ドスッ ( ,,)┌─┴┴─┐ / つ .終了. │ 〜′ /´ └─┬┬─┘ ∪ ∪ ││ _ε3 ゛゛'゛'゛ (゜д゜)y-┛~~~フゥ〜 終わりです。 長かったです。 最後のほうはすっかり教科書レベルになってしまいました。(苦笑 それにしても、いままでありがとう御座いました。 ちなみに、あやふやな知識をもとに書いておりますので、信用しないでください。 また、誤字脱字、内容の間違いなどのご指摘は一切お受け付けませんのであしからず。 気が向いたらまた・・・はい、すいません、もうしません。 前のページへ<=
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