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「帝国の死亡証明書」〜ウェストファリア条約〜




<三限目>



お久しぶりです、2週間も空いてしまいました。ちゃ〜んと生きてましたよ(w。
独断と偏見とにわか知識を多少脚色して語る

「帝国の死亡証明書」〜ウェストファリア条約〜

では、続きを。


  リュッツェンの戦いにおいて、敗れはしたものの、見事グスタフを討ち取ることに成功した旧教側ですが、 その後、戦局を大きく変えられたかといえば、そうではありませんでした。この戦いの後、旧教側の中心であった名将ヴァレンシュタインは、 何を思ったのか自分の本拠地であるベーメンに帰り、すっかり鳴りをひそめてしまいます。戦うことにつかれたのか、 旧教側に嫌気が差したのか、はたまた神聖ローマ皇帝の座をいただくために力を蓄えようと思ったのか、ともかくその後、 彼は皇帝派の部下に暗殺されてしまいます。こうして、彼を失った旧教側もまた、戦力の低下を余儀なくされます。

ちなみに、このヴァレンシュタインという男は、私利私欲の塊であったようで、当時の評判はあまり良い物ではなかったようです。 まあ、私はそんな彼が好きだったりするのですが…。

ヽ(´ー`)ノ


…話が逸れました。

  さて、名将と呼ばれる2人を失い、両軍共に生彩を欠く中で、長い遠征による疲労の所為か、 1934年、ネルトリンゲンの戦いでスウェーデン軍が敗れると、旧教派はスウェーデンとの講和を申し出、 スウェーデンも、これに応じることになります。こうして、ようやく沈静化するかに思われたこの戦争は、 この後、最大の転機を迎えることになります。フランスの直接介入でした。

  さて、フランスがスウェーデンの援助国であったことは先の文章で述べたところですが、これには重要な意味があります。 なぜなら、フランスが<旧教国>であったからです。つまり、フランスの新教側としての参戦は、三十年戦争が、宗教戦争という枠を越えて、 政治戦争に発展したということを表しているに他ならないからです。

  では、なぜ旧教国であるフランスが、 新教側にたって参戦することになったのでしょうか。そこには、当時のヨーロッパにおける、ハプスブルク家とブルボン家という二大王家の対立が、 大きくかかわっています。

 当時のヨーロッパにおいてフランスは、ポルトガルを併合し、新大陸から極東アジアにまで及ぶ広大な植民地を有し、 「太陽の沈まぬ国」と称されたスペイン、神聖ローマ皇帝の冠を戴き、 中央ヨーロッパ一円に一大勢力を誇るオーストリアの両ハプスブルク家に挟まれる形で存在していました。 この両ハプスブルク家に対抗するために、フランスは度々、宗教という枠を越えた政策を採らなければなりませんでした。 そして、その最たるものが、イスラムの国家であるオスマン帝国との同盟であり、この戦争に対する新教側としての介入だったのです。

  とにかく、このフランスの参戦によって、戦局は新教側の圧倒的優位へと傾いていきます。傭兵主体であった当時、 フランスの誇る常備軍の活躍は目覚しい物がありました。この後、フランスは破竹の快進撃の末、 遂にこの戦争の発端であるベーメンの王都、プラハを占領するに至ります。そしてこの頃から各国は、 戦争終結へと動き始めることになります。

(゜д゜)y-┛~~~フゥ〜


  疲れたので(それに時間もないので)今日はここまで。いやー、実は一週間前には書けてたんですが(授業中に)、 打ち直す気がしなくって・・・。まあ、また気が向いたら書きますは。( ̄ー ̄)


・・・いま、止めろって言われた気がした(たぶん気のせい)



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