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独断と偏見とにわか知識を多少脚色してももうネタが尽きてきた「帝国の死亡証明書」〜ウェストファリア条約〜
<四限目>
今日も元気に行ってみよう!!
では、続きを
さて、フランスの介入によって、それまで拮抗していた戦局が一気に新教側へと傾いていく中で、
各国はなぜ講和を模索し始めたのか、そ れには、以下の3つの理由があげられます。
まず一つ目は、フランスの介入によって、旧教側の旗色が極端に悪化したことです。
昔、戦争において重要なことは、いかに勝つかよりもいかに負けるかということだ、というようなことを言った人がいました。
つまり旧教側諸国、とりわけオーストリアが、いかに負けるかという点ではもっとも有利に事を進められるであろう講和という道を選んだ ことは、
至極当然のことといえます。また、この戦争の発端となった人物である神聖ローマ皇帝フェルディナント2世が1637年に死亡していたことも、無関係ではないでし ょう。
2つ目は、長期にわたる戦争によるドイツの荒廃でした。
先に述べたとおり、当時戦争の主役であった傭兵の横暴ぶりには、目に余るものがありました。
彼らの略奪行為の結果、開戦当時1800万だったドイツの人口は700万(当時死者の数を誇張する傾向にあったため、実際にはこれほど 多くはないと言われていますが)にまで減少しました。
このことはつまり、ザクセン・バイエルン等、神聖ローマ帝国内に領土を有する諸侯の経済力・軍事力の減衰につながり、
諸侯の戦争継続 能力に重大な支障をきたすこととなったのです。
そして三つ目は、各国を取り巻く国際情勢の悪化です。
それには、フランス・スペイン間の直接抗争を初め、イングランドのピューリタン革命、オスマン帝国保護下のトランシルヴァニアによる オーストリア侵攻、バルト海を巡るスウェーデン・ポーランド・ロシアの対立等が上げられます。
これにより各国は、ドイツの争いから手を引かざるを得なくなります。
さて、これらの要因によって、各国は講和の席に着く事となりますが、ここでも各国の利害が対立することになります。
この会議を召集したのは、フランスの宰相マゼランでした。
1644年ドイツ西部のウェストファリア地方の都市であるミュンスターとオスナブリュックで始まったこの会議には、フランス・オース トリアをはじめ66カ国もの国々が参加することになります。
しかし会議は難航し、ようやくまとまった頃には、すでに四年の歳月が流れていました。
こうして、1648年10月24日ミュンスターにおいて締結されたのが、世界で初めての国際条約、ウェストファリア条約だったのです 。
(゜д゜)y-┛~~~フゥ〜
疲れたから今日はここまで
さて、次回はいよいよウェストファリア条約
思えば長い道のりだった
まあ、その内送るぜ
じゃあな、あばよっ!!
・・・ってそこっっ!!、もう送るなって言わない
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